hiden voice


2010/1/30「AP snowboarder HN誕生!」

皆さんこんにちは。
今年の冬はとても寒い・・・と感じていたのですが、この数日はとても暖かい。
雨まで降りますから、やっぱり温暖化なんでしょうか・・・?

今日はまず、皆さんに報告があります。
昨年僕は、「来年パパになる!」と書いたかと思いますが、
我が子は早く世に出たかったのか、予定日より一ヶ月も早く誕生しました。
それは年末の事でした。
26日の早朝に電話が鳴り、その電話は妻のお父さんからでした。
妻が破水をし、病院に向かったとのこと。
僕は、何が何だか分からず、早朝の4時から破水について調べました。
それから2時間が経ち再度電話が。
「元気な女の子だよ!」
それはそれは、ビックリというか、まさかこんなに早く生まれてしまうとは!?
それでも、母子共に健康で元気いっぱいに育っています。
妻は里帰り出産をしておりますので、僕がわが子に会えたのは、
生まれてから2週間後のことでした。
そして、数日我が子と過ごし、僕は仕事のために軽井沢へと戻りました。
家族が揃って新しい生活をスタートさせるのは4月頃になるかと思いますが、
僕は今、毎晩我が子の事を思いながら酒を飲んでいます!(笑)

そして、多くのお祝いやお祝いのお言葉をいただき、この場を借りて感謝申し上げます。
また、オリンピックが近いというのに、オリンピックに出場する僕の友人は、海外からわざわざプレゼントを送ってくれて、気にかけてくれることが本当にうれしい。
お返しに、日本から家族で精一杯応援するから、オリンピックでは是非伸び伸びと滑って欲しい。
応援しているぜ!!

さて、今日はhiden historyの続きを書くことにしましょう。
前々回、僕がスノーボードと出会ったのは、スケート時代の先輩の家だと書きました。
当時寿司屋に勤めていた僕は、先輩の家で奇妙な形をした板を見かけました。
“先輩、これなんですか?”
“おぉ、これか。これはスノーボードって言うんだ。ヒデもやろうぜ!!”
“スノーボードか・・・、まぁ趣味もないし、面白そうだやってみるか・・・”
その頃は、入店から2年が過ぎようとしていた頃で、順調にカウンターにも立てるようになり、
正直なところ、マンネリ化しているというか、やっぱりスポーツ好きだったので、
何か刺激が欲しい部分もあったのかと思います。
僕は、先輩に紹介されるまま、東京のあるスノーボードショップを訪れます。
当時はスノーボードが流行し始めた頃で、いわゆる3点セットの安いものを購入し、
ウエアは量販店の安いカッパみたいなものだったかと思います。
スキー場には行ったことがなかったので、とりあえず、スキーをやっていた友人を誘い、
白馬へ泊まりで行くことになりました。
初めてのスノーボードは、と言うより初めての雪の上は刺激的でした。
氷の上で滑る事はずっとしてきましたが、斜面を滑り降りると言うことは、
何というか、自分の意志に反して滑落していくような感じで、
上手くいかなくて、上手くいかなくて、とても悔しくて、でも何だか面白かった。
初めてのスノーボードでは、およそ半日で何となく滑り降りることができるようになった。
ターンをすると言うより、無理矢理板を降り出しては逆エッジ喰らって・・・と言うような感じ。
でも、白馬だったからどんなに転んでも、バフバフの雪で痛くはなかったけどね。

初めてのスノーボードを終えてからは、店が休みの度に山へと出かけた。
コンビニ行くとスノーボードの雑誌も買うようになった。
それから間もなくして、僕は調子に乗って痛い思いをする。
滑れるようになった頃、きっとみんな体験したことがあるだろうけど。
僕は、ろくに滑れる訳でもないのに、自分で滑れるんだ!と勘違いし、
調子に乗ってキッカーを飛ぶようになる。
結果は皆さんの想像通り、とーっても痛い思いをして、大後悔するはめになる。
この後はしばらく、スノーボードから遠ざかったことは言うまでもない。
それでも、スノーボードがしたくて、したくて、再度山通いが始まる。
当時はまだまだスキー場も、スノーボーダーに対しては開放的ではなく、
ほとんどのスキー場がライセンス制度などを導入して、滑れるコースは限られていた。
住んでいるところから近かったスキー場に通い、ライセンスを取得することを楽しんでいた。
そんな頃、キッカーで痛い思いをしていたこともあり、フリースタイルには限界を感じていた。
それからしばらく経った頃、友人から「いらない・・・」というボードを譲り受ける。
それは、今までとはまた違う形をしていて、ビンディングの形状も全く違った。
そう、アルパインスノーボードとの出会いだ。
僕は、まずはその板に合わせられるブーツを探して、いくつかのプロショップを訪ねる。
僕が出会ったお店は、末木プロが経営するスノーボードショップハローだった。
ご存じの方も多いかと思うが、末木プロはアルパインスノーボードでは先駆者的存在。
その後は、僕が働く寿司屋に何度か足を運んで頂いたり、色々と話をしていくうちに、
刺激されたのは言うまでもない。
それからは、末木さんがスクールを開校しているゲレンデに出かけることが多くなり、
アルパインスノーボードにどんどんのめり込んでいった。
あのスピード感、そして究極のカービングによって感じるGは半端じゃない。
そして、レースがあることを知り、もともと競技者でもあった僕の中で、
ざわざわと血が騒ぎ始めたんだ。
僕はアルパインスノーボードの魅力に、計り知れない未知なる道を見つけて、
本屋で専門のアルパイン雑誌を購入した。
スピードスケート時代以来のトレーニングも再開した。
その年は、スノーボードを始めただけだったので、レースに参加することもなく、
どんな道が待ち受けているのか?を知る訳でもなく、ただひたすら寿司屋で働いていた。

寿司屋で働く毎日に、変化が訪れたのはそれから間もなくしてだった。
俺は何をしたいのか?どうしたいのか?毎日自問自答の繰り返しだったと思う。
結果として、俺はある夜、親方に伝えた。
「おやっさん、俺はスノーボードがしたいです、だから店を辞めたい・・・」と。
当然みんなに反対されて、親にも説得された。
それでも、たかが趣味程度で始めたスノーボードは、僕の中で大きな割合を占めていた。
結局、辞めるまでには色々と問題はあったけど、全ての人たちが納得はしてくれた。
僕は山梨から軽井沢へと戻り、アルバイトをしながらスノーボードをする道を検索し始める。

これでスノーボーダー長岡英明が誕生したのは言うまでもない。
そして、スノーボーダー長岡英明は、現在にも至っている。

さて、次回からは実際に僕がどんな行動をしてきたか?お話ししましょう。
それでは今日はこれくらいで。

ひで