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2010/1/11「スピードスケート」

皆さん、こんにちは。

今日は僕のスピードスケート生活について。

ご存じの方も多いかと思いますが、僕が生まれ育った軽井沢町は、
スピードスケートがとても盛んで、小学校の授業は必ずスケートで、
スケート教室といって、一日中スケートの日も多かったです。
小学生の頃は、駅近くの池が凍りますので、父兄達がリンクの整備をして、
毎日スケートの練習に多くの生徒が励みました。
残念なことに、その池は今では凍りません。
町が観光事業として橋をかけたので、大きなコンクリートの基礎をうったからです。
まぁ、温暖化の影響もあるかと思いますが、今ではその池ではスケートはできません。

僕は、小学校、中学校とスケート部に所属して大会にも出場しました。
パッとした成績はあまりありませんでしたが、中の上くらいの選手だったかと思います。
僕は中学時代の素行の悪さから、通常では高校への進学は難しかったのが事実です。
前回の“スノーボードを始めるまで”で、スケートを生かして進学したと書きましたが、
中学3年生の頃にミラクルが起きていたんですね。
当時は見た目も不良少年でしたので、とてもスポーツマンには見えません(苦笑)
それでも、なぜか?スケートの大会には出場していました。
練習らしい練習をしたこともあまり記憶にありません。
だけど僕は、全日本中学校選手権で7位に入賞してしまったのです。
ラッキーというか、たまたま何かがかみ合った瞬間だったのでしょうね。
そして、その成績が決めてとなり、山梨の高校に入学することになったのです。

僕がスケートで高校に入学してからは、練習はとても厳しいものでした。
僕が行った高校は、山梨県ではとても強い学校で、練習に充てられる時間もとても長かった。
それに、山梨と言えば、富士急行スケート部がとても有名で、
僕たちも定期的に富士急行を訪れては練習に参加させてもらいました。
1〜2年生の頃の僕は、正直、スケートがあまり好きになれずに、
練習も積極的ではありませんでした。
正直、どうやって練習をサボるのか・・・に頭を使いました(苦笑)
転機は2年生の時、他校の3年生が、500Mで県高校記録を9年ぶりに塗り替え、
新聞では騒がれ、注目の的となりました。
しかも、初めての38秒台と言うことで、その話題は大きなものでした。
その状況を外野から見ていた僕は、自分の中に奮い立つ気持があることに気が付きます。
やらされている感覚の練習から、自らがやろう!と思えた瞬間だったのです。
そうして迎えた3年生。
僕は人が変わったかのように練習に取り組み、ただひとつの目標に向かって、
全てをスケートの為だけに費やしました。
皆さん、練習をしすぎて“吐く”って感覚わかりますか?
僕は吐くまで、毎日自分自身を追い込みました。
体が常に極限状況にあり、寝ていても体がつる事が多くありました。
それでも、目標達成のために僕はひたすら練習に明け暮れました。

僕が掲げていた目標は“県高校記録を塗り替える!”というものでした。
9年ぶりと騒がれていた、あの記録を塗り替えたい、ただそれだけ。
今思えば、なぜ?インターハイ優勝とか、国体優勝とか、そういった目標じゃなかったのかな?と思う(笑)
とにかく記録だけを目指していたんですね。
シーズンインしてみて、やっぱりトレーニングの成果は確実に現れていた。
滑るたびに自己記録が更新され、調子も上々、周囲の期待も高まっていた。
「今年の長岡は、全国でも十分に通用する・・・」と。

僕は、高校を卒業したら寿司屋に入店することが決まっていた。
だから、スケート競技は、どんな結果であれ高校卒業したら終わりと決めていた。
たまに、スケートを続けていたとしたら、どんな選手になっていたのか?
もしかして、オリンピックに行けたんじゃないのか?なんて思う時がある。
でも、あるのは現実のみ、あの時スケートを続けていたら、当たり前だけど今の僕はいない。
だから、あの時スケートをやり尽くして終えてよかったと思っている。
最後の年は本当に充実したスケート人生だったからね、何の悔いもない。
思い出深いのは、僕の最後の年、あの橋本聖子さんも現役最後の年で、
しかもオリンピックイヤーだったと思う。
聖子さんは日本に残って練習を積んでいて、その練習台になっていたのが僕達の高校だった。
聖子さんと練習を積めたことは、とても貴重な体験だよね。
聖子さんから学んだものもまた大きい。

話がそれちゃったけど、結果として俺はインターハイでは不運のアクシデントにより、
決勝にすら進めることができなかった。
きっと“インターハイ優勝”という目標を立てていたら、きっと結果は違っていたはず。
それでも、国体では3位と5位に入賞し、引退前に大きなご褒美ももらえた。

全ての大きな大会を終え、残すレースは山梨県スプリント選手権のみで、
このときにはまだ目標だった、県記録も樹立できていなかった。
スプリント選手権というのは、500m2回、1000m2回を滑り、
その合計でスプリント王者を決めようという大会だ。
スケートの場合、滑るリンク、滑らないリンク、とではタイムが全然違うから、
あの時の山梨県スプリントでは、正直不利な状況だったかと思う。
一日目500m一回目。
それなりのタイムをたたき出したが、県記録には及ばず。
1000mはもともと得意ではないので、無難に滑ったかという感じ。
二日目500m二回目。
このレースで俺は引退する。
泣いても笑ってもこれがスケート人生最後のレース。
僕は、普段と変わらぬ滑りをしたいと願い、試合用のワンピーを着ずに、
普段練習で着ているワンピーを着てレースに臨んだ。

スケート人生最後のレースは、課題とされていた伸び伸びとした滑りができた。
しかし、ゴールしても同走の選手が転倒したために、いつまでも記録が発表されない。
感触的には、リンクのコンディション等含めても、微妙な感じだったかな。
ようやくタイムが集計されたらしく、場内でアナウンスされた。
スケートの場合、通常はゴールしたらすぐにタイムがアナウンスされるので、
このときの待ち時間はものすごく長く感じたよ。
確か従来の県記録が「38秒96」くらいだったから、コンマ差で記録を破れない可能性もあった。
アナウンスは、僕の期待を裏切らなかった。
「38秒84・・・38秒84、県新記録!!」
その瞬間俺は両手をあげて喜んだ。
更にうれしかったのは、高校に入学してから、僕の人生を大きく変えてくれた大先輩が、
なんとなんと、リンクサイドにいるではありませんか!!
この大先輩は、僕が1年の時の3年生で、誰からも愛される僕が唯一全てをさらけ出せる人。
今でも時々ゴルフを楽しみ、酒を楽しみ、この先輩との時間は特別なものだ。
夫婦での合い言葉、「せっちゃん、(先輩の呼び名)やっぱり最高だよね!」
そして誰もが言う、「せっちゃん最高!」って。
そんな大先輩にも祝福されて、更におまけとしてスプリントチャンピオンにも輝き、
僕の長かったスケート人生は最高の形で終わりを迎えたのです。

今でも、当時父がこっそりと撮りためてくれたビデオを見ます。
家族でみながら、酒を飲み思い出話をします。
嫌々ながら行った山梨、でもスケートを華やかに終えた18歳の頃にはきっと、
心のどこかで両親には深く感謝していたと思う。
ただ子供だったからね、恥ずかしくてそんな感謝の気持ち述べられなかった。
だから今、ここで感謝の気持ちを述べたいと思う。

“あんなヤンチャだった俺を、最後まで見捨てずに道を導いてくれてありがとう。
山梨に行ったことで今の俺があり、そして更に大きな道が開けた。
このお礼は、生涯かけて少しずつ返していきたい。
だから、健康で長生きしてくれ!
おやじ、おふくろ、ありがとう・・・“

と、最後は何だかしんみりしちゃったけど、これが今の素直な気持ち。
そして、僕が歩んだスピードスケート選手としての道でした。

それでは次回は、スノーボーダー長岡英明誕生!です。
今日はこれまで。

ひで